「あなた」は誰でも良いです。
正真正銘「あなた」で良いし、奥さんだって、子どもだって、誰に入れ替えても成り立ちます。
これはお釈迦様の教えにも似た、真理です。
こう断言したら、
そう言う私はバカ扱いされるでしょうか?
シカトされるだけでしょうか?
法螺吹きと謗りを受けるでしょうか?
み仏への冒涜を咎められるでしょうか?
お金を引き寄せた人は、「お金」と同時に「マイホーム」や「別荘」、「ヨット」、「海外旅行」などの「豊かな人生」「幸せな人生」あるいは「同僚」「伴侶」や「名声」「地位」なども引き寄せますよね。
いっぽう、お金を引き寄せることができなかった人は、「橋の下」とか「公園」とか「あらぬ風評」とか「濡れ衣」とか?
いったい何が違うというのでしょうか?
いや、違った(過去形または現在進行形)のでしょうか?
「努力が足りない」でも「運」でも片付けたくない命題です。
幸不幸の原因というものを見つめ続け、どんどん底が(どん底といいます;-P)近づいてくるうちに、私は、重大な法則を見つけました。
・・・
とても簡単でした。
お釈迦様が苦行難行の果てに真理を見つけ出され、悟りを開かれたような高尚な真理ではありません。
でも、それは真理だと、私は確信しています。
それは、「結果」の出る「原因」を作っていなかったこと。
そこに分水嶺が横たわる。
いかがでしょう?
それじゃ、お釈迦様の因果説を裏返しただけではないか!
とおっしゃる方が出てこられましょうね。
はい、そのとおりです。
宗旨はそれぞれ違えども、お釈迦様を源流とする仏教各派に共通の教えのひとつは「因果説」と総称できる考え方です。
その裏返しを私は見つけたのですが、「ものは見方ひとつ」ですし、私の見つけた真理も仏教のそれと変わりません。
(専門ではありませんが、たぶんそうです)
「お金持ちになる」という「結果」が欲しかった人が、そういう「結果」の出る「原因」を作るための(少なくとも、その可能性のある)法則をお示しすれば、私の説も多少なりとも市民権をを得られることでしょう。
そう考え、この場をお借りして翁視してみます。
それは、
「お金持ちになる」という「結果」が欲しい人は、「お金持ちになる」という「結果」を実現する「あること」をすれば良い、ということですよね?
その「あること」を考えるに際して、ちょっと昔、あなたがまだ子どもだった頃の自分とその当時のお友だちのことを思い出して欲しいのです。
自分はダメだな、でもコイツ(友だちのこと)はスゴイな、とか、逆に、自分はスゴイけど、コイツはダメだな、とか、評価していた記憶はありませんか?
相対的に「できる子」と「できない子」がいたはずです。
絶対的とも思えるほどに、「できる子」と「できない子」がいたはずです。
メンコにしても、コマ回しやタコ揚げ、金魚すくい、竹馬、プラモデル、絵、ピアノ、算数、暗算、おこづかいの使い道、、、などなど
いろんなことに、あなたはお友だちには違いがあったはずです。
上手い子はなぜ上手かったか?
下手な子はなぜ下手だったのか?
多少のハンディはあるかも知れませんが、能力や体力には、まださほど大きな差は開いていない時期です。
でも、技量の差が間違いなく存在した。
しかも、とてつもない大きな差として存在した。
ふたりの間に立ちはだかっていた。
このことを思い出してください。
そして、その「差の原因」を考えてみてください。
それは、「集中度の差」「それにかけた時間の差」「好奇心や関心の度合いの差」ではなかったでしょうか?
思い出して欲しいのは、これらの差です。
そして、それは、「たかがその程度」の差でしかなかったということ。
しかし、その程度の差は、「結果の差」というとてつもなく大きな差を生み出していた。
次に、その子の今と、あなたの今を比べてみましょう。
その子は今どうしていますか?あなたはどうでしょう?
子どもの頃に何かしら(何でもいい)頭ひとつでも飛び出していた子と、逆に、頭ひとつ低かった子の差は(身長のことを言っているのではありませんよ、お分かりと思いますが、念のため)、今現在、どのような違いになって現れているでしょうか?
その当時、できる子の技術や知識、経験は、できない子のそのはるか上をいっていたと思います。
できない子の「できなさ度」は、できる子には信じられないほど低かったはずです。
然るに、その本質的な能力差や技術差は、大人の目で見たら、取るに足らない微細な差でしかなく、その大部分を「集中度」や「時間」「好奇心や関心度」に拠っていただけ。
お金持ちになるとかならないとかな関係なく、子どもは何かに集中します。
たいていは遊びですが、とにかく集中します。無中になってやります。
TVアニメに夢中の子は、親の言うことなど「聞こえません」。
その無中になってやったことが何か、は、人により千差万別でしょう。ただ、何に集中しようと関係なく、少なくとも、集中度がその子の技量や能力を形づくる基礎だった。
もちろん、メンコの上手かった子がお金持ちになっている、ピアノの上手かった子は、、、などと短絡的なことを言いたいのではありません。
子供の頃に、何かしら飛び出ていた(傑出していた)子の、飛び出ていた原因と、今のその子。逆に、子供の頃に、何かしら出遅れていた子の、出遅れていた原因と、今のその子。
それを対比的に見ると、そこに、「集中度の差」「それにかけた時間の差」「好奇心や関心の度合いの差」などが今も厳然と存在するという事実に気づきます。
もちろん、例外もあるでしょうし、事故や災難など、いつ誰に降りかかってくるかは神のみぞ知ることですから、100%当てはまるとは申しません。
すなわち、お金持ちになった人は、自分の好きなこと、情熱を傾けるほど関心のあることに(メンコに一心に興じたり、ピアノの練習に励んだりしたように)その後の人生においても、集中力や時間、好奇心や関心の大部分を「好きなこと」に費やしてきたに違いないのです。
お金持ちになるべくしてなるような、お金持ちになる可能性の高い仕事や進路ほ「好きなこと」にしてきたはずなのです。
逆の子は逆でしょう。
お金持ちにならなかった人は、自分の好きなこと、情熱を傾けるほど関心のあることにその後の人生の大部分をかけてきたに違いなく、それが、たまたまお金持ちにはならないような、あるいは、お金持ちになる可能性の即低い仕事や進路を選択してきただけの差なのです。
財力の差、すなわち数字の差ほど、人の能力には差はないはずです。
しかるに、9桁?10桁?いやもっと?
そんな財力の差を生んだのは何かを考えて見ましょう。
(相続や犯罪などは度外視してくださいね-論外です。)
・・・
私が言いたいのは、
お金持ちになるかならないかの差は、お金持ちになるような(お金というリターンや結果の出る可能性の高い)仕事や進路に人生の大部分をかけてきた、逆の人は、違うものにかけてきたはず、ということです。
そして、その差というものは、さほど大きな違いではない、ということです。
ここからが、最初に挙げた仮説の解になります。
お金持ちになりたければ、残る人生の大部分をお金持ちになる可能性の高い仕事に振り向ける。
これが、「あなた」がお金持ちになれる絶対条件です。
「あなた」の部分は、誰でも当てはまります。
お金持ちとお金持ちではない人の違いは、はっきり言うと、金稼ぎ法にどれだけ集中しているか、してきたかの違い。
これがお金持ちとそうではない人との差です。
子どもの頃の気持ちは、ただひたすら「もっと知りたい」とか「もっと上手くなりたい」という気持ちだけだったと思います。
これをお読みの「あなた」が、今どんな仕事をしているか、何に熱中し集中しているかなど知るべくもありませんが、もし今自分の仕事や稼ぐことに満足できていないのであれば、一度、「自分は本当に金持ちになりたいのか?」「どうしたらなれるのか?」を自問してはどうでしょう。
「なんとしても出す!」という強い信念、
「必ず達成する!」とする強い意思
がなければ、
「あなたの望む結果」は出ません。
人生の成功は、お金だけではありませんし、欲しいものを手にすることだけが幸せではありません。
しかし、はっきりしているのは、
(あなたにとっての)成功も
(あなたにとっての)不成功も、
どちらも、ただ一点にかかっていること。
それは、
「集中する」こと。
これ以外にはありません。
その目的がお金なら、お金に集中する。
出世なら、仕事に集中する。
名声なら名声の得られる活動に集中する。
「集中」がすべてです。
集中しなければ何もなし得ません。
その人の存在感やオーラ。それもすべて「集中」が生み出す摩訶不思議な現象であり、パワーです。
真っ赤に燃える護摩木の炭火の上を素足で歩いて渡る「火渡り」はなぜ可能なのか?
これを解く鍵も「集中」です。
お金も人も信用も名声も、「集中あるところ」に集まってきます。
「集中」が「集中」を呼びます。
あなたが「集中できること」あるいは「集中したいこと」は何でしょう?
そこにお金も人も信用も名声も、すべてが集まってきます。
ゆっくりと考えてみてください。
答えを出すのは「あなた」です。 アーティクルリソース:http://www.infomake.org/
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